マタギについて学ぶ

お山のおもしえ学校 マタギ資料館

室町時代から続く大川原のマタギ文化

おもしえマタギ資料館

マタギとは、北東北三県の山間に住む猟師の事を言うが、一般で言うと猟師やハンターとは違い、マタギ独自の儀式や習俗を持つ猟師の事を言う。例えば、山では山言葉を使う、山に入る際には、山立根本記または山立由来記という巻物を身に着ける事等が有名だ。
マタギが北東北三県(青森、秋田、岩手)に限定される理由は、江戸時代の公的資料である各地域の藩日誌に北東北三県の津軽藩、久保田藩、盛岡藩で「マタギ」という語が登場するのである。
他県の藩において猟をする者は、マタギではなく、猟師、山立猟師などと呼ばれていた。山形や新潟など北東北三県以外で「マタギ」が登場する場合、それは主に秋田の阿仁マタギが江戸時代後期から明治にかけて他県に遠征をして猟をしていたため、彼らのことをマタギと呼んでいたのだ。
そんなマタギたちがこれまで一番活躍した時代は、江戸時代である。それは、当時「熊の胆」が良薬としての価値が非常に高く、高値で取引され、マタギたちは各藩から優遇された。津軽のマタギたちは「熊の胆」を弘前藩へ献納し優遇されていた時代だ。江戸後期においてマタギたちは藩境警備もするようになるが明治期に入ると薬としての「熊の胆」の価値も下がりマタギ文化は衰退していくが、昭和初期までは大型獣の毛皮などが軍需品として取引されていたようだ。熊の剥製
青森県のマタギといえば、目屋マタギ(江戸後期誕生)や赤石マタギ(江戸中期誕生)が有名だが大川原マタギの歴史は古い。平成二十二年には大川原かつて庄屋であった民家から南部藩第二十六代当主で戦国武将南部信直の狩猟免状が見つかったのだ。あわせて、マタギたちが山に入る際に身につけていた巻物「山立根本記」も見つかった。南部信直の狩猟免状は、秋田県大館市の老犬神社にも同じものが保管されている。
そこで、お山のおもしえ学校では「大川原のマタギ」文化を次世代に継承していくため、平成二十六年七月マタギ資料館オープンの運びとなりました。

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マタギとは何か。

西目屋村河原平での熊猟(「白神学第3巻」より)

西目屋村河原平での熊猟
(「白神学第3巻」より)

黒石市大川原のマミの穴掘り(穴ぐま狩り)(「大川原小百年誌」より)

黒石市大川原のマミの穴掘り(穴ぐま狩り)
(「大川原小百年誌」より)

マタギという言葉が一体どういう意味なのか、その語源については定説はなく、色々な説が出ています。
例えば菅江真澄は、マダ(級・シナの木)の皮をはぐこと、「マダはぎ」が変わったものだといい、アイヌ語気源説や、インド起源説もあります。弘法大師が追いはぎに襲われた時に、追いはぎが大師の威厳に打たれて平状し、改心して元の鬼退治に戻ったということで、又鬼の名を賜ったなどというような話もあります。

マタギと、一般の猟師やハンターといわれる人々との違いは、マタギ独特の儀礼や、習俗があることです。例えば狩りをしている時には山言葉を使わなければならないとか、産火と祝言火を嫌うとか、さまざまな禁忌があり、また、忍者のように巻物を持っていて、マタギの起源というのが色々な形で示されています。なかでも広範に流布しているのが「山立根本記(巻)」とよばれるもので、そこには磐司万三郎というマタギの祖先が日光の神様を助けた、それで猟をしてもよいことになった、といった話がのっています。非常に不思議な存在のように見られていますが、これらの多くは修験道との関係が非常に深く、基本的には日本文化の中で説明されることが多いようです。磐司万三郎の物語も、日光二荒山神社の縁起の変形であり、山寺立石寺の伝承にも関係しています。

 

 

 

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マタギ語の分布

マタギについて紹介されている文献には、マタギが東北全体に分布すると書かれているものがあります。しかしながらマタギという言葉は特に青森県、岩手県、秋田県に特有のものだと考えてよさそうです。
マタギ狩猟文化概念図

江戸時代の資料では、弘前藩と久保田藩では「又鬼」、盛岡藩では「■」という語であらわれます。これに対し、他藩ではもっぱら「猟師」であり、仙台藩のみ「山立猟師」という語で出てきます。猟師については、他の地域では狩人、鉄砲撃ち、殺生人、山子、山人といった言葉が使われますが、これを北東北ではマタギと呼んでおり、北東北特有のものとなっています。山形県や新潟県にもまたぎの語があるのは、秋田(特に阿仁)の猟師が、江戸時代後期から明治期にかけて反境、県境を越えて南北に広範に行き来をして猟をした経緯があるからで、鈴木牧之の『秋山紀行』にも出てきます。津軽にも来ていた形跡があり、こうした人々の動きを通じて、マタギの伝承は色々な形で各地に伝わりました。それ故、南東北の方では「マタギ」という言葉はあっても「マタギというのは秋田の猟師のことだ」と言ったり、さらに「自分たちはマタギではない。猟師だ」というような言い方をしているわけです。

歴史の中のマタギ

マタギの狩猟文化については、およそ次のようにまとめられます。まず第一に、北東北には「マタギ」という言葉を有する狩猟文化がありました。その形成の起源にちうては、明らかではありませんが。民俗学では猟師を表す古語である「山立」の転訛だという説があり。ぞれが正しいのであれば。修験道の成立=仏教伝来以降ということになります。実際に猟師の由来をとく「山立根本記」は天台密教系の物語を踏襲しており、また、高野派という別系統は弘法大師が関わっています。

要するに、マタギ文化は、もともとあった原日本的文化に山んお宗教文化や伝承が混じり、さらに江戸時代の藩による政策(熊の胆の確保と藩境警備)や、阿仁の猟師の広範囲な活動に見られるような、日本国内の経済活性化とも関係した、まさに日本文化の変遷を色濃く反映したものなのです。現代に続くマタギ文化というのは、こうして古代から現在に続く日本列島の大きな歴史の流れの中で生まれてきたものです。そもそも猟師は、私たちみんなの歴史の一部、ふつうの歴史の一部と考えてといものなのです。

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