津軽のマタギ

白神山地を歩いた津軽マタギの最後の一人とされる鈴木忠勝氏(森山家蔵)

白神山地を歩いた津軽マタギの最後の一人とされる鈴木忠勝氏(森山家蔵)

tsugarumatagi
一般に、マタギの村という言い方をしたり、先祖代々マタギであるという話が聞かれることがあります。でも、歴史資料を紐解くと、マタギの村は時代の中で変遷してきました。

津軽マタギの分布も、江戸時代の初期から後期にかけて大きく変化しています。(表)は、元禄二年(一六八九年)六月一日の『弘前藩庁御国日記』に記載のマタギのいる村と、文化十年(一八一三年)以降、二回以上の褒美を受けた猟師がいる村とを比較したものです。地図上で確認してもらうとよくわかると思いますが、元禄二年の時点では、最奥にある村のまたぎのみが活躍を始めるようになります。(表)の右側は文化・文政期以降、津軽で特に目立ったマタギたちの居住地となりますが、ここでは、最奥といっていい村が並んでいるのがわかるでしょう。もっとも、今もマタギの伝承が残るのは、鯵ヶ沢町大然・一ツ森、西目屋村砂子瀬・川原平、黒石市大川原くらいになってしまいました。

また、熊猟をしている場所も、当時は人里近い場所が多いのですが、順に人里から奥に入った場所での猟が増えていきます。恐らく、熊を獲りすぎたことによるものと考えられます。

獲物と猟具

こうしたマタギたちが狙う獲物の第一は、熊でした。獲った熊の胆(胆のう)と皮は、藩に納めました。熊の胆は特に、万能薬として珍重されました。明治期以降は、獲ったものはすべて自分たちのものになりました。とはいえ、津軽では自家消費が一般的だったようです。そのほか、カモシカや猿などを獲る地域もありました。ウサギなどはマタギといわず一般に多く獲られていたようです。

狩猟法と猟具についていえば、江戸時代までは熊猟はタテという槍のようなものを用い、また、罠や仕掛けも使ったようです。銃も用いられたようですが、明治期までは数も限られており、射程も短く、依然として熊狩りにはタテが使われ、様々な技が必要でした。

砂子瀬物語と白神山地のマタギ

白神山地

白神山地

津軽マタギにとどまらず、マタギを知る文献として頻繁に引用されるものに『砂子瀬物語』(一九六九年)所収の「マダギの聞き書」があります。一九五一年及び五二年の西目屋村砂子瀬における民俗調査で採集されたもので、計七十五項目にわたって。マタギの禁忌や山言葉、マタギ道具や猟法など事細かく記されています。

中でも目を引くのが、マタギたちが語る様々な怪異にかかわる項目です。例えば、マタギの神様・ジョウドゴ様の伝説。東目屋・中畑のジョウドゴ様が大沢の山奥で犬二匹を連れて猟をしていましたが、女人禁制のその場所に女房が訪れたことで獲物が獲れなくなり、ジョウドゴ様は犬二匹を両腕に抱いて大川の常徳沢に飛び神になったのだというものです。また、今も西目屋村田代に残るセキド石は、かつて山で遭難した十一人のマタギ達を弔ったものだといわれています。

その砂子瀬の集落も、一九六〇年建設の目屋ダムと、現在建設中の津軽ダムの移転により、川原平集落とともに今は消えた集落となってしまいました。

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