大川原のマタギ

弁慶マタギの伝説

大川原の集落

大川原の集落

ここでは、黒石市大川原集落に残るマタギの伝承についてふれましょう。大川原には「弁慶」マタギの伝承があり、今もその屋号が残っています。弁慶は幕末に実存した人物で、藩の史料にも登場します。大川原では怪力の持ち主として数々の伝説を残しています。弁慶の子孫に残っている伝説の一つに、弁慶が臨終を迎えた時の話があります。弁慶のいまわの時、炉辺に集まってきていた家族たちの上で、炉にくべる薪を乗せた「シダラ」を吊るした縄が切れ、家族の上に落ちかかってきたのだそうです。それを臨終にあった弁慶がさっと腕で押さえたので事なきをえた、というものです。

弁慶マタギにはそのほか、弁慶が滑ってその足跡が残った石、山からその怪力で運んできた巨大な墓石などの怪力伝承が残されています。

また、弁慶マタギに関わるマタギ文書、猟の鑑札陣羽織などが資料として確認できます(ただし原資料の所在は現在不明)。

マタギ文書の世界

江戸時代末期における大川原マタギの活躍は佐藤雨山『勝地山形物語』などにも取り上げられ、伝承が生き生きと採録されてきました。

大川原には、マタギに関わる資料が、弁慶以外にも残されています。二〇一〇年に確認されたもので、大川原で「ショウヤサマ」と呼ばれる家に伝わってきた山の神の祠の中に、多数の古文書や各地の御札が詰め込まれていました。おそらく幕末から明治初期にかけて大川原集落を取り仕切っていた佐藤喜兵衛という人物にかかわるもののようです。

先述のように、マタギの文書には大きく、日光系と高野敬があってよく知られています。大川原の文書にも日光系のものが含まれています。また、これらとは別に、旧盛岡藩領のみに存在する定六マタギに関わる文書も含まれていました。これは、南部の猟師定六が、盛岡藩祖・信直に猟の許しを得たという内容のもので、こうした文書が鹿角から大館にかけて見られることは、よく知られてきました。定六マタギは大館市にある老犬神社に伝わる老犬様の伝承にも登場する猟師です。

津軽川の大川原で、このような南部系の文書が見つかったことは大変興味深いものです。特にこの周辺では、「南部つが津の戦争のさい、互いの藩からマタギたちがかりだされたが、マタギたちはすぐに仲間になって戦うことをしなかったため、藩からおとがめを受けた」などという伝承も伝わっています。

火流しの里大川原

大川原の火流し

大川原の火流し

大川原集落は、またぎ伝承以外にも奇習「火流し」で有名です。一九八六日に行われます。三隻の萱の舟に火を付け、野良着姿の若い男たちが、中野川の激流の中、船を推し進めて生きます。そしてその燃え具合で翌年の豊作を占います。
この火流しの起源について人々後醍醐天皇との関係を強調します。特に、八二年に見つかった一通の文書に、現在は長野県の大鹿村の一部である「大河原」から、後醍醐天皇の第八王子宗良親王に仕えていた香坂高宗の子孫が津軽を訪れて「大川原」を創ったとされる記述が見つかり、話題となりました。
大川原の住人たちは、この大発見に注目し、実際に、長野県大鹿村を訪ねていますが、根拠らしいものは見つかっていません。とはいえ、『鳥城志』にも、かつて大川原は「公○村」と呼ばれたという記載もあり、歴史のロマンを尽きません。

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